動物愛護のあり方を考える中で、論議そのものがタブー視されているのがアジア地域で見られる「犬を食べる習慣」についてである。
犬を食べる習慣は韓国、中国のみならず、日本でも少し前までは犬の肉が流通していた。
この古くて新しい論争は常に、動物を愛護する立場の人々から、この食習慣に対し反発する事が発端となる。
隣国の韓国では、オリンピックの開催を期にこの問題が過熱した。
行政は欧米諸国の批判をかわすために、犬料理を供する食堂の看板を規制し、犬料理店を欧米メディアの目のつきにくい裏通りに移転させた。
現在の韓国社会で「犬を食べる習慣」は今なお健在である。
犬の料理を供する食堂と、食べる客のバランスは取れている。
韓国、中国といえども犬肉を国民が日常的に食べる事はない。
しかし特別な人だけが食べているのでもない。
季節的需要とか「体に良い」とかの理由で老若にかかわらず、ごく自然に食べるようである。
もちろん罪悪感などない。
「食文化」と言うのはこう言う事を言うのであって、日本にも世界にも類似の事例は多い。
他国の「食文化」に対する干渉は度を超えてはならない。
かつて韓国の行政は犬の肉を「食肉」として流通させている事に問題があるとの抗議を受け、犬の肉を「食肉」から外したいきさつがある。
しかし近年、犬肉の流通が闇に隠れる事による多くの弊害が表面化し、 特に衛生管理上の観点から再び管理下に置く方向に動くようである。
日本の「鯨」を食べる習慣に対する批判も強い。
一部の愛護団体は「鯨を殺す悪事を阻止するためなら何をしても良い」と錯覚までしている。
人間を含めたあらゆる動物は、自分よりも下位の動物を食べる事で生を保っており、特定の動物を食べるのは野蛮だと主張するには、空腹に耐える覚悟が必要である。
仮りに人間が食物連鎖の最上位ではなく、中位に属していたら、我々はいやおう無しに何者かの食料になっているはずである。
何者かに食われる身でありながら、下位の動物を食べない動物は存続できないのである。
飽食文化を享受する先進国の動物愛護団体が他国の「食文化」を批判する事は慎重でなくてはならない。
地球上の多くの地域で、人々が今日生きるために必要な食料さえ欠乏している事態を無視してはならない。 |